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コロナ禍の夏に

 7月下旬、オリンピックが開催されている東京では著しく、そして愛媛県でも、再びコロナ感染者数が増加し始めた。

 外出時にマスクを携帯し、アルコール手指消毒をする暮らしとなって1年以上が過ぎる。当初はこのような長期間になるとは夢にも思わず、その長さに驚きながら、一方でこれが日常となりつつある。

 この日常化の裏には、飲食店をはじめとするあらゆる業種の悲痛な声や、医療現場・従事者の労苦があることを忘れてはならない。

 自戒をこめてわが身を振り返る。日常化という言葉で何かを放棄していないか。あふれる情報から私は何を選び取っているのか。そして自分の頭で考えているのか。

 何かに目を奪われて、本来考えるべき大事なことや、届かない小さな声から耳をそむけていないか。今だけ良ければいいのではない。何かのひずみは必ず大きな歪みとなって返ってくる。

  いつの時代でも、しわ寄せが来るのは弱者。

 マスクと言えば、マスクをしているがゆえに、知人の顔がわからないこともある。一人暮らしの高齢者宅を訪問する民生委員や見守り員の方に話を聞いたところ、顔の表情がわからないマスクでの訪問は警戒されるそうだ。

 確かに耳の不自由な方には声が届きにくく、表情でも伝えきれず、見知った顔もわからず、不便な事態となってしまうだろう。警戒している相手に無暗に距離を詰めることもできない。

 しかし、その中でも感心したことは、スケッチブックを用いた訪問が効果的だったとの事例である。耳の遠いお年寄りには、文字という視覚情報で得られる安心感も大きい。工夫を凝らした訪問活動に頭が下がる。

 考えてみれば、今年度もまだ、小学校のPTA総会も参観日も読み聞かせもない。一部のPTA活動で顔を合わせている保護者の方はいるが、新1年生や転入してきた子供たちのご家庭はさぞかし不安なことだろう。

 もしくは、それも日常となったか。何気なく顔を合わす、挨拶を交わすことがどれだけ大切なことかと私は考えるのだが。

 夏のある日、緑になった水田の上を泳ぐ鳥追いカイトを見ながら思う。